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神戸地方裁判所 昭和30年(わ)601号 判決

被告人 神田孝

主文

被告人は無罪。

理由

本件公訴事実は、

被告人は住友銀行本店審査部第一部臨時副長主査として勤務していたものであるが、最近自己の記憶力が減退したことに不安をいだき、今後同僚間の競争に伍して銀行業務を遂行し昇進の道を歩むことはできないだろうと自信をうしなつていたが、その上自己の肺浸潤について喀啖検査の結果菌が発見されたことや、家庭的には同居していた実母いせ(当七六才)が高血圧にたおれてより口やかましくなり妻との折合いもよくない上、経済的にも余裕がなくなつてきた等の事情がかさなり、ますます将来に対する希望を失い厭世感をいだくようになりこの上は自殺をはかるのほかなしと思料し、その際妻子をのこすのは不幸であると考えた末、妻神田信子(当時二八才)長男同秀穂(当時六才)次男同年穂(当時四才)の三名を殺害しようと決意し、

第一、昭和三〇年五月二七日午前四時頃宝塚市切畑字長尾山一番地の二三所在の自宅奥六畳の間において、就寝中の前記妻信子、次男年穂、長男秀穂の頭部を順次所携の麻なわで絞扼し因つて右三名をして頸部絞扼によりその場において窒息即死するにいたらしめ、

第二、前同日前同所において右死体を焼却するため、現に人の住居に使用する前記自宅木造瓦葺平家建(建坪約一三坪)一棟に放火しようと決意し、右六畳間において石油コンロ用油を右信子等がまとつていた毛布等に散布した上所携のマッチをすつて毛布の一部に点火したが、同居中の母いせの身の危険を考えてこれを思いとどまり毛布の火を消してその犯行を中止し、その目的をとげなかつたものである。

というのであつて、司法警察員作成の検証調書、医師横井泰彦の作成の死体検案書三通、神田いせ、藤川保、被告人の検察官ならび司法警察職員に対する各供述調書、押収してある刺身庖丁一本(証第一号)、トリスウイスキー空瓶一本(証第二号)、燃残りのマッチの軸一本(証第三号)、毛布四枚(証第六号の一乃至四)、石油瓶一本(証第七号)、木綿紐一本(証第九号)の各存在を綜合すれば、右事実はこれを認めることができる。

しかし、鑑定人村上仁作成の精神鑑定書ならびに同人の証人尋問調書、鑑定人林章作成の精神鑑定書ならびに同人の証人尋問調書、鑑定人竹山恒寿作成の精神鑑定書ならびに同人の証人尋問調書を綜合すれば、被告人は本件犯行当時相当に重い鬱病の状態にあり、その病的衝動によつて本件犯行に及んだもので、その精神障碍の程度は重篤であつたことが認められ、これを刑法上より見ればいわゆる心神喪失の状態にあつたものと認められるから、結局本件公訴事実は、刑法第三九条第一項により罪とならないものというべきである。

よつて、刑事訴訟法第三三六条前段を適用して、被告人に対し無罪の言渡をする。

(裁判官 大倉道由 三輪勝郎 阪井いく郎)

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